徳川家康は征夷大将軍に就くと、自領である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。
設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した[4]。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名・旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都・大坂・長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度や京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。
徳川家康は征夷大将軍に就くと、自領である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。
設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した[4]。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名・旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都・大坂・長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度や京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。